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日本ALS協会福岡県だより/秦茂子さん
西日本新聞記事

「福岡県重症神経難病患者入院施設確保等事業」運用開始記念事業
ー難病患者とその家族の生活の向上を目指してー
平成10年12月3日 福岡県庁講堂


基調講演
『ALS病患者の現状と支援体制への期待』

秦茂子・祐司


ただ今ご紹介を頂きました秦と申します。
私の横の車椅子におりますのが妻の茂子です。
妻は重度神経難病のひとつである筋萎縮性側索硬化症、通常ALSと言って いますが、その患者です。

さきほど保健福祉部長さんよりお話がありましたように、このたび福岡県 において「重度神経難病患者入院施設確保等事業」が実施されることになりました。
このことは私たち患者・家族にとって、今後、闘病・介護を行なっていくうえで 有り難い事業であると感じており、大変嬉しく、そして心強く思っております。

このシンポジウムにあたり「難病患者とその家族の生活向上を目指して」 をテーマとすることとしたので、患者・家族の立場から基調講演をしてもらえないか とのお話がありました。
私と妻は発病以来、在宅で闘病・介護を続けてきただけでして、このような場で 多くの方達に話をした経験もありませんし、同じような病気の方達のことも 数多く知っている訳ではありません。
そんなことで、基調講演にふさわしいお話が出来るかどうかとても不安ですが、 折角このような場を与えて頂きましたので、思い切って、妻の発病以来 今まで、本人と家族がどの様に考え、どの様に暮らしてきたかを皆さんに お話しし、そして、「重度神経難病患者入院施設確保等事業」にどんな期待を しているかを聞いていただきたいと思います。

今からの話は殆ど我が家の事になりますが、同じような病気を闘っている多くの 患者さん、家族の方も多分同じ思いであろうと思います。

このALSとはどんなものか、私からは申し上げませんが、皆さんに ひとつだけはじめに理解していただきたい事があります。
それは、この病気は筋肉の萎縮していく進行性の病気です。患者は五感も 意識もなんら侵されませんが、体のすべてがだんだん動かなくなっていきます。
今、私の横におります妻もまばたきと唇を動かす事が出来るほかは殆ど体を 動かすことが出来ません。
しかし、意識は全く正常です。記憶力も理解力も判断力もあります。そして、字 を読むことも見ることも聞くことも全く正常です。
そのことを皆さんに理解していただいたうえで、これから、患者として感じ、 考えたことを、妻が唇でパソコンを操作して、約一週間かけて書いた文を 読み上げたいと思います。

それでは読み上げます。


『私が発病したのは1988年、38歳の時でした。それから数えて今年は11年目に なります。
まずはじめに、私が病気の宣告を受けて、どう感じたかから話したいと 思います。

当時、夫を通じてお医者さんから、「残念ですが原因はわかりません。 3年から5年の命でしょう」と言われました。
ALSとは、運動神経がやられて筋肉がやせ細り、次第に自由がからめとられて いく病気だと聞かされましたが、そんな病気があるなんて夢にも知りませんでした から大変驚きました。

治療法もなく進行していくばかりとのこと、これから私はどうなっていくのか、 どうすればいいのか皆目見当もつかず、不安で途方にくれました。まるで 重い漬け物石が突然覆い被さってきたかのような重苦しさを感じ、不快でした。 この不快さからなんとかして逃げたいと思いましたが、宗教などにも 縁遠く生きてきた身には逃れるすべはありませんでした。
せめて少しでも心が軽くなるためには何をどう考えたらいいのだろうかと思いました が、その答えはにわかには見つかりませんでした。

一方、病気が進行するにつれ、動作が一つ一つ出来なくなっていきました。 例えば、昨日まで立ち上がれていたのに、今日は出来なくなってしまった。 自分で食べられなくなった。手が上がらず、電気のスイッチを押せなくなった。 トイレに一人で行けなくなった。などなどです。ひとつできなくなるたびに 悲しい思いをしました。精神的に一番つらかったのは、この、出来そうだけど 出来ない、というあたりでした。出来ない状態が続くと、やがてそれに 慣れてきて、その慣れが次第に諦めに変わっていきました。
悲しみと慣れと諦めを繰り返して繰り返して、現在に至っています。 そして諦めの到達点は忘れることだと気がつきました。忘れることが出来る と心は平常心でいられます。
そう頭で考えても、心はなかなかついてきません。病気になってからの月日は、 あたかも強制的に精神修養のための修業に引っぱり出されたような感じがします。 心至らず、修業の足りない私ですが、ひどく落ち込んでしまうことはありませんでした。 それは、自宅で家族と共に過ごせたためです。

発病したとき、子供達は5歳、9歳、11歳でした。育ち盛りの子供が3人も いれば、次から次へと事件が起こり、心配や笑いなどの絶えることがなく、 落ち込んでいるひまがありませんでした。
子供の成長を見ているだけですが、楽しく充実していたといえます。 尚、ついでに言うと、私は、なんで自分がこんな病気になったのかとは考えませ んでした。そんな疑問を持つと、それに対する答えが、例えば日頃の 行いが悪かったのだとか、神様が与えた試練だとか、前世の因縁だ、 などと言われたらたまりません。余分な悩みを抱える羽目になります。
私は、自分がこの病気になったのは全くの偶然だと思っています。 運が悪いのはこの上ありませんが、それだけです。私のせいではないと思って いるので気を楽にもてます。

次に、現在の体の具合を話します。私は右手の中指と足の膝が動きますが、 あとの手足は動きません。指には鈴を付けて、介護をしてくれる人を 呼んでいます。声のでない私にとって、この指は命綱といえます。
また膝は立てることがなんとか出来るので、寝るときに立てた膝を右や 左に倒して寝返りの代わりにしています。これで今のところ介護してくれる 人を寝返りのために起こさずに済んでいます。これは幸運としか言いようが ありません。
夜中に何度も起こされるのがいかにつらいかは、私も子供達が赤ちゃんだった ときの経験からよくわかりますから。でも年々足も弱くなっていますから、 この幸運もいつまでもつかはわかりません。

病気の初期の頃から、夫が、そして最近は夫が不在の場合には子供が 代わりに手足の関節をまわしたり、マッサージを毎日してくれています。 おかげで手足の関節に痛みはありません。有り難いことだと思っています。
私は3年前に気管切開しましたが、人工呼吸器はつけていません。 しかし、自力で痰を出せないため、痰が出たときすぐに吸引してもらわないと 息が詰まってしまいます。だから、24時間介護してくれる人がそばにいなければ なりません。これは大変世話のやけることです。

私はしゃべることが出来ないので、意思疎通のほうはひとつづつ音を拾って いきます。例えば“手”と言いたい時、人に「あ、か、さ、た、な・・・」 と言ってもらい、“た”行にきた時、眉をあげて合図をします。 次に、「た、ち、つ、て、と」と言ってもらい“て”のところでまた眉を あげます。時間はかかりますが、通じます。
「yes」は眉をあげ、「no」は目をつぶります。込み入った話をしたいときは、3年前 に届いたパソコンがおおいに役立っています。私はセンサーに唇をタッチして 入力します。パソコンを利用して言いたいことが言えるのは精神衛生上良い ものです。ALSの患者にとっては欠くことができない道具ではないかと 思います。

食べたり飲んだりするのは、病気の前と同じように口から出来ていますが、舌の 力が弱いので、口の中で食べ物をうまくまわすことが出来ません。ひと匙、 ひと匙、ゆっくりなので、とにかく時間がかかります。
以上、今の私をまとめると、身の回りの事は一切できず、しゃべれず、 24時間の介護が必要な、まことに手のかかる病人といえます。

次に、私が置かれている状況について話します。私の発病当時小さかった 子供達も、今は高校生1人と大学生2人になりました。私が年を追って 弱っていくのとは逆に、頼れる存在に成長しました。学生生活をやりながら 交代で家事をこなしつつ、私の面倒をみてくれています。
夫や子供がいない日の日中ですが、以前は私の母にも来てもらっていましたが、 父が病気になって来ることが出来なくなり、今は、大分に住んでいる 夫の母と小倉に住んでいる夫の妹が交代で泊りがけで来てくれています。 2人が助っ人として来てくれているおかげで、私は自宅で過ごせています。
家族と合わせると6人の介護者がいるわけで、大変恵まれています。 しかし、来年4月には長男が大学を卒業して就職するため家から出ていくよう なので、大幅な介護の戦力低下が目の前に迫っています。私の介護がこれから どうなるのかは予測がつきません。

病院のことですが、初病当時は九大病院にかかっていました。体が次第に 不自由になってくると、遠くまで行くのが苦痛になり、近くの徳洲会病院に 転院しました。
現在は、訪問看護をうけています。毎週一回、お医者さんと看護婦さんが 交代で見に来てくれて、何でも相談できるので安心です。
私は、肺炎にかかって息がくるしくなったりなどで、これまで3回も救急車 に乗りました。その時、私の病状を把握している徳洲会病院に運んでもらう ことができ、つくづく近くの病院に転院して良かったと思いました。

お風呂のことですが、気管切開をする前までは、夫が一人で入れてくれていました。 病気の進行につれ、これが大変な作業になってきました。それでも、夫は 頑張って入れてくれていましたが、もう限界に達していたと思います。
そこで、気管切開したのを機会に、那珂川町の社協の入浴サービスを利用 させてもらうことにしました。週一回、お湯と湯船を積んだ車がやってきて、 女の人3人がお風呂に入れてくれます。
私を洗ってくれる人達と、この制度に感謝しています。

次に、ALS患者としてお願いしたいことを話します。

ALS患者は、24時間そばにいる介護が必要で、しかも大変手がかかります。 今のホームヘルパーによる短時間介護ではなく、少なくとも半日そばに ついてほしいと思います。そうしたら、家族は、勤めや学校を続けながら 介護のローテーションが組めます。
そして吸引もしてほしいのです。吸引は看護婦さんしか出来ないという点に 困っています。吸引は注射と違って誰でも出来ます。現に、我が家の娘も 小学生の時からやっています。
患者のためを思って、誰がやってもいいことにしてほしいのです。
また、私が是非取り組んでほしいと思っているのは寝返りの支援です。
テレビで、夜間、鍵を預かったヘルパーさんが定期的に現れて寝返りを うたせてくれるのを見たことがあります。これが普及したら、私の風呂と 同じでどんなに助かることかと思います。

適切な支援があれば、看護する人が犠牲にならずに患者とともに自宅で 暮らしていけます。また、なんといっても患者にとって自宅で過ごすのが 一番ですが、それが出来ない時は、介護をしてくれる施設に入ることが出来たら どんなにいいかと思います。
ALS患者はさしたる治療方法もなく、採算に合わないという理由で入院を 断られることが多いというのは悲しく酷いことだと思います。
これは病院を責めてもはじまる問題ではなく、是非、行政のほうで解決して ほしいと思います。

次に、私の今の気持ちを話します。

私は発病当時、ここまで長生きするとは想像できませんでした。先の事は 考えても仕方がないと、日々の営みだけを思うようにして、毎日を重ねて きた結果、いつもまにか現在に至ったというところです。
前に言ったように、私がこの病気になった責任はないと思っていますが、 病気になってからの責任はあると思っていました。
とは言っても、何も出来ないですから、せめてめげずに元気でいられたら いいなと考えていました。だからこの前、娘が「確かにお母さんは病気だけど、 元気だという感じがするよ」と言ってくれたのがうれしかったです。

私が元気でいられるのはひとえに介護のスタッフが充実していたからに他なり ませんが、これはたまたま私が恵まれていただけです。介護の支援がなくて、 介護者が疲れていたら患者は元気が出ません。

ALS患者は圧倒的に介護の支援を必要としています。
これは何度言っても言い足りない思いがします。支援をよろしくお願いします。
最後になりましたが、私は、夫をはじめとして子供達、義母(はは)、義妹 (いもうと)そして私を直接、間接に応援してくれる人達の気持ちを有り難く 思い、感謝して暮らしています。』


妻が書いたのは以上です。

次に、介護を行なってきた立場から、今後の支援制度への要望を三つほど 簡単に申し上げたいと思います。

まず、ひとつめは、患者と医療機関とのしっかりした絆が必要だと思います。
患者・家族は先々の事が大変不安です。最後まで頼れる病院があるのかどうか、 途中で誰からも相手にされなくなるのではと思ってしまいます。
幸い、妻の場合は、緊急の時、駆け込むことが出来るところが定まっているので 不安の大部分が解消されていますが、まだ多くの患者さんが不安を抱えた ままでの闘病を余儀なくされています。
この事業が着実に実施され、医療機関のネットワークの中で、それぞれの 患者・家族の状況に応じた受け入れが出来るようになることを切に願っております。

ふたつめは、こういった難病に関する情報のキーステーションがあると 助かると思います。
病気についての情報や介護や対処の方法など、医療に関する情報や車椅子や ベッド、意思伝達装置としてのパソコンなどの日常生活用具の給付制度、 障害の認定、障害年金など福祉に関する情報があちこちにあるのですが、 残念ながら行政組織の仕組みの結果、まだまだバラバラであるように思われます。
これらの情報がまとめられていて、カウンセリングを含む様々な相談を 受けてくれる場がほしいと思います。
行政が行なうのか民間団体が行なえるのかをNPO法との関係とからめて、 情報キーステーションの実現に向けての検討を行って頂きたいと思います。

みっつめは、きめ細かい介護サービスの充実を期待します。
ALS患者は、病状の進行につれて介護の内容も変化します。特に、声を 失った患者に対しては、意思疎通の極めて困難な状況の中で介護を行わなければ ならないので、患者の状況や気持ちを理解し、相互の信頼関係が育っている 人が介護を続けられる事が最も望ましいと思います。
また、吸引行為のように資格上の問題で誰もが出来ないなど、難しい事が 多々あることは承知していますが、今後、介護保険制度がスタートし、介護 サービスのあり方が考えられていく中で、サービスの内容が、患者・家族の 望むものとすれ違わないものになるよう期待しています。

以上、患者の立場と介護するものの立場から、患者・家族の現状と本事業の 実のある運用への期待を述べました。

私たち患者・家族は、これからも、自らの力の及ぶ中で自主的に、そして 自立した活動を続けていきたいと思っています。そのなかで、行政とは 対立的関係ではなく、私たちの活動のひとつとして、行政と連携していこう と思っています。このパイプを保ち続けて、本事業が実りあるものになるよう 願いながら、努力していきたいと思います。

皆さんの応援をお願いして、私の話を終ります。
ありがとうございました。
 



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